風のローレライ


第4楽章 風の落葉

2 制服


「よっ! アキラ」
後ろから追って来たバイクが横に並んだ。それは今井だった。
「あんた、ドジったらしいね」
わたしが言うと、今井は笑って言いわけした。
「ああ。でも、すぐに釈放してもらえて助かったよ。アキラ、おまえ、すげえバック持ってんじゃん」
「バック?」

――事件の方は僕がもみ消しておいた

「そうさ。そんなら怖いもんなしだからな。じゃんじゃん行けるぜ!」
「じゃんじゃん……?」
そこには、エンジンの音だけが響いていた。
「そうさ。その気になりゃ、百万だって、1千万だってちょろいもんさ」
「そんなに?」
「ああ」

今井は悪びれもせずに言った。
そうか。それならいけるかもしれない……。
早苗ちゃんの命を救うためには、それくらいのことやんなきゃ……。
いざとなったら、武本を利用してやればいい。大人なんてみんな汚いんだ。生半可なことやってたんじゃ、とても1億なんか集められないもん。思い切った方法でやんなきゃ、本当に手遅れになっちゃう。

「アキラ!」
きつい声で平河が呼んだ。
「何よ? 平河ってば、何でそんな怖い声出してんの?」
「おまえ今、ろくなこと考えてなかったろ?」
「ろくなことって何よ! わたしは真剣に早苗ちゃんのための募金の集め方を考えてたんだからね」
「犯罪者になりたいのか?」
「えっ? 何言ってんのよ。わたしはただ……」
「見も知らない人から金盗ろうって話じゃないのか?」
平河はあくまでも冷静だった。

「人聞きの悪いこと言わないでよ! ちょっと寄付してもらうだけなんだから……」
「ちょっと? ちがうだろ? おまえらがやろうとしてることは……」
「何を今さら、いい子ぶっちゃってんのよ? あんただって『FINAL GOD』にいたくせに……」
「それとこれとはちがうだろ?」
「ちがわない! いいよ! あんたが気が進まないってんなら、わたし達だけでやるから……。止まって! わたし、今井のバイクに乗せてもらうから……」

「アキラ!」
「呼び捨てにしないで!」
向かい風に逆らいながら、わたしは叫んだ。
「だめだ!」
平河がスピードを上げる。今井との距離がどんどん広がって行く。
「止まってよ!」
わたしは、平河の背中をこぶしでたたいた。
「止まれ!」
街灯がものすごい速さで飛んで行く。

「いいよ! 止まらないなら飛び降りてやる!」
わたしは平河の腰から手を放した。すると、バイクの走りはだんだんゆるやかになり、やがて歩道との区別のためにある白いラインのわきで止まった。
生温かい風が湿気をふくんで服に絡みついた。遠くで風が鳴いていた。そう。本当に鳴いているように聞こえた。悲しみのこもった低い声で……。
何だろう? 何があったんだろう? 何がそんなに悲しいの? わたしは動けずにじっと耳をすました。
「降りないのか?」
振り向かずに彼が言った。固い声だった。
「バカ! こんなとこで降ろされたって困るよ」
もう今井の姿は見えなかったし、しんと静まり返った林と海と四角いビルだけが建ち並んでいる。ここは、そんなさみしい場所だった。

「送って行くよ」
しばらくすると彼がぽつりと言った。
「うん」
潮風に吹かれながら、わたしもうなずく。今日はずいぶん遠くまで来てしまった。あまり遅くなると、また皐月さん達が心配する。帰らなきゃ……。


そうして、見慣れた住宅街まで来た時、裕也が青ざめた顔で自転車をこいでいるのに出くわした。
「裕也! そんなにあわててどこ行くの?」
バイクで追いかけながら、わたしは叫んだ。
「リッキーが……」
答える彼の声が闇の中で震えた。
「リッキーのお姉さんが自殺したんだ」
「えっ?」
わたしは耳を疑った。
「何で?」

「学校でいじめられたって遺書があったらしい」
「そんな……!」
「それで、リッキーがいじめた奴らをぶっ殺すって言って……」
「何でそんなことになっちゃったのよ?」
「知るもんか! おれ、先に帰ったからよくわからないんだけど、電話もらって……。メッシュとマー坊が止めようとしたらケンカになっちゃって困ってるって夏海さんが……」
「それ、どこなの?」
「中学の近くだって……」
「平河」
わたしが言うと彼はうなずいてスピードを上げた。
「わたし達、先に行ってるから!」

風がひどく冷たかった。
どうして、リッキーのお姉さんが自殺しなきゃならないの?
やさしい人だって聞いたけど、まだ一度も会ったことないのに……。
話だってしたことないし、制服のお礼だって、ちゃんと言っていないのに……。どうして……!


空は闇におおわれ、入り組んだトンネルを抜けるようにバイクは進んだ。
中学校の長い塀にそって行くと、それは長い胴をくねらせている大蛇のようにも見えた。

「リッキー! やめて!」
校門の向こうから夏海さんの金切り声が響いて来た。
「放せ! おまえらにおれの気持ちがわかるもんか!」
リッキーが叫んでいる。
「わかるさ! おれだってこないだ、ばあちゃんを亡くしたばかりなんだ!」
マー坊の声がそれに重なる。
「おまえのとこは病気で死んだんだろ? おれの姉ちゃんとはちがうさ! それに、姉ちゃんは15なんだぜ! まだ人生これからだってのに……!」
「ばあちゃんだってまだ生きれたさ! あんな連中にだまされたりしなけりゃな!」
マー坊が言い返す。

えっ? だまされたって、どういうこと?
わたしはバイクから降りると、彼らがいる方向に走った。

「だまれ! おれは絶対許せねえんだ!」
「だからって、おまえが復讐したら、お姉さんが生き返るってわけじゃないだろ?」
なだめるようにメッシュが言った。
「そんなことはわかってる! でも、このまま泣き寝入りするなんてしたくねえんだよ!」
「だからって、復讐なんてだめだよ。お姉さんだって喜ばないよ」
夏海さんも必死だ。
「けど、許せねえもんは許せねえんだ! 遺書にはっきり書いてあったんだ。MとKにやられたってな」
「でも、イニシャルだけじゃわからないじゃないか」
メッシュが疑問を口にする。
「わからなきゃ突きとめてやるさ! そして、絶対に殺す!」

「バカヤロー!」
マー坊がリッキーを殴りつけた。その勢いで二人はもつれるように転んだ。マー坊は泣きながら彼のえり首をつかんで揺すった。
「おれは絶対におまえを人殺しになんかしないからな!」
そこへ裕也が自転車から飛び降りて駆け付けた。
「何やってんだよ、リッキー。おまえだけが悔しいんじゃないんだぞ! おれ達だってみんな悲しいんだ」
「うるせえ! おまえらにゃ関係ねえ! これはおれと姉ちゃんの問題なんだ! どけよ!」
みんなが止めるのも聞かないで、リッキーは強引に彼らの手を振りほどいた。

「いい加減にしなさいよ!」
わたしは、ついにがまんできなくなって言った。
「あんたが行ったからって何ができるの? 殴る相手も見つけられないで、どうやって復讐するって言うの?」
「うるせえ! おまえにゃ関係ねえだろ?」
「関係あるよ! この制服、育美さんのなんだよ! 育美さんが着てたこの服が、あんたのこと見てるんだからね!」

「だまれ! だまれ! だまれ! 誰もおれの気持ちなんかわからねえくせに……! 知ったような口を利くな!」
リッキーは暴れ馬のように誰も寄せ付けようとしなかった。そして、怒り狂って校門を出ようとした。わたしは闇の風を呼ぼうと身構えた。その時、平河がリッキーの顔面を殴りつけた。リッキーは2メートルも飛んで地面に転がった。
「くっ……!」
リッキーは上半身を起こすと唇の端から流れている血を手の甲で拭うと、平河を睨んだ。
「痛ゥ……!」

「どうだ? 目が覚めたか? 中坊!」
「……ああ」
静かなエンジン音を響かせて、頭上を飛行機が飛んで行った。
「こいつらが言う通りさ。おまえ一人がカッカしたって何にもならない。復讐どころか、つまらない暴力沙汰を起こして補導されるのが落ちさ」
説得するように言う。
「だからって。何もしないなんてがまんできねえよ! 姉ちゃんは人から恨まれるようなことをする奴じゃねえんだ。誰にでもやさしくて、困っている人を見ると放っとけない性格で、自分が損したって助けちまう。そんな姉ちゃんがおれ、大好きで……。いつも遠りょばかりして、自分はほんの少しだけ幸福のおすそ分けをもらえれば、それでいいんだって言ってた姉ちゃんが……」

「知ってるよ」
夏海さんがそんなリッキーの肩に手を乗せる。
「わたし達、みんな知ってるから……」
その目を覗き込んで言う。
「ああ……」
ようやく少し落ち着きを取り戻したリッキーが、握ったこぶしを見てうなずいた。
「そうだよ。今は育美さんのために祈ろう」
裕也が言った。
彼らの間にとどこおっていた張り詰めた空気がすっとほどけた。

「おれ、すっかり気が動転しちまって……。姉ちゃんが死んだなんて、とても信じられなくて……。認めたくなくて……。だから、おまえ達に八つ当たりしてるだけだってこと、ちゃんとわかってたんだ。けど、どうにもならなくて……。ごめん」
リッキーがわびた。
「いいよ。気にすんなよ。こんな時、落ち着いてられる奴なんかいないよ」
マー坊がなぐさめる。
「ああ。おれ達、友達じゃないか」
メッシュも言った。
「そうだよ。プリドラのメンバーとして、ともに活動して来た仲間じゃないか。できるだけ力になるよ」
裕也もその手をつかんで言った。

「もし、どうしても気持ちが収まらないのなら、きちんと調べることだ」
平河がアドバイスした。
「いじめられていたという裏付けを取るんだ。目撃者を探し、証言をしてくれる人を集める。まずはクラスメイトや友人関係などから順に当たればいい」
彼の言葉にみんな納得してうなずく。
「そうよ。まずは聞き込みからよ。わたし、同級生の子に藤ノ花に行った子がいるから訊いてみる」
夏海さんが早速、協力を申し出た。

「おれの友達も何人か行ってる。学年はちがうけど、何かうわさとか知ってるかもしれないから……」
平河が言いそえる。
「ありがとう」
真剣な顔でリッキーが言った。

みんな、何だかすごい。ばらばらなようでも、いざとなればちゃんとまとまるんだ。
そうだよね。人一人が命を絶つなんてよほどのことだ。しっかり調べて育美さんを死に追いやった連中を見つけ出してあやまらせなきゃ……。でも……。
いくらあやまったって、亡くなった命は還って来ない。だったらどうしたらいい? やっぱり復讐する? 同じ目に合わせて反省させるとか……。でも、そんなことで育美さんは満足するだろうか。
やさしい人だっていうから、そんなことしないでって言うかもしれない。でも、それでいいの? ずっとやられっぱなしで、自分だけが辛いものを背負って、命さえも失くして……。それで本当にいいの?
わからない。考えれば考えるほどわからなくなる。
でも、今は祈ろう。育美さんとリッキーのために……。


育美さんの葬儀は家族だけで行うというので、わたし達は参列しなかった。
その代わり、いじめた犯人を見つけるための協力をした。といっても、試験も近かったし、できることは限られていたのだけど……。

「桑原さん、今日はやけに大人しいのね」
昼、お弁当を食べていると、西崎が話しかけて来た。
早苗ちゃんが欠席し始めてから、しばらくの間は一人で食べていたのだけれど、先生がどこかのグループに入れてもらいなさいと言った。そしたら、西崎が自分のグループに入れてもいいと言ったのだ。以来、ずっとこのグループに机を寄せてはいるけど、これまでは特に話もしなかった。
「別に……」
わたしは、おざなりに返事した。
「そうか。もうすぐ期末試験だものね。赤点取るのが怖いのかしら?」
わたしは、おかずの卵焼きを、はしでつまみながら言った。

「やけにしゃべるんだね。どういうつもり? 今日は、リッキーのお姉さんの告別式がある日なんだよ。あんただって家が隣なんだから知ってるんでしょ?」
「隣といったって、うちは敷地が広いのよ。いちいちお隣の動向なんてわからないわよ」
「だって、あんたはリッキーとは幼なじみなんでしょ?」
「ええ。でも、お姉さんとはほとんど顔を合わせたことないの。いつもおどおどと影にかくれてばかりいるような人だもの。いじめられても仕方がないんじゃない?」
その言い方に、わたしはカチンと来た。
「仕方ないって何よ? 育美さんは、それを苦に自殺したんだよ! よっぽど辛いことがあったんだよ」
でも、西崎は鼻で笑った。

「そんなの自己責任でしょ? たかがいじめられたくらいで死ぬなんてバカみたい」
わたしは思わず席を立つと、その女の頬を引っぱたいた。
「バカとは何だよ! そう言うあんたの方がよっぽどバカのくせに……!」
「痛い! 何すんのよ! この暴力女!」
彼女も立ち上がって、わたしを睨んだ。

「そこ! 何をしてる?」
武本先生が来て、わたし達の間に入った。
「先生、桑原さんがわたしの頬をぶちました! それに、バカって言って……」
「あんたがひどいこと言うからだよ! いじめられた者の気持ちなんかわからないくせに……!」
わたし達は教室の真ん中で睨み合った。
「お互いの言い分はそれだけかい?」
先生がきいた。でも、わたし達はだまっていた。
「わかった。では、二人とも放課後、指導室に来るように! そこでじっくり話し合うことにしよう」
指導室……? また、あの部屋に……。武本に呼び出されるなんて最悪だ。


生徒指導室……。この部屋に入るのはいやだ!
あのことを思い出すから……。

――驚いたよ。君も僕と同じ風の能力者だったなんて……

同じ? ううん。ちがう! わたしの力は、武本なんかとは、ぜんぜんちがう。

――彫刻のモデルになってよ

わたしを縛りつけて、押さえ込んで、そして…。
あんなことに使う力じゃないんだ。
せっかく皐月さんに銭湯に連れて行ってもらって、何もかも洗い流したっていうのに……。ここに来たら、また囚われてしまう。
あの男の闇の風に……。
いやだ! あんなこと……! もう、絶対にいや!

逃げちゃおうか?
そうだ。このままだまって帰ってしまえばいい。そうしよう。このままそっと通り過ぎて……。
わたしは足音を忍ばせてドアの前を通った。
ふう。大丈夫。誰にも見つかっていない。
あとは昇降口までダッシュすれば……。でも……。

「桑原さん、どこに行くの? 指導室はこっちだよ」
いきなり職員室のドアが開いて武本が出て来た。見てたんだ。職員室の中から……。
監視してるの? わたしのことを……。見えない場所からじっと見つめている。そう思ったら何だか急に怖くなった。
「ほら、丁度、西崎さんも来たよ」
武本が言った。彼女は、どことなく元気がなかった。いつも強気なあいつでも、呼び出しくったのは、やっぱショックなのかな?
西崎は、先生にうながされると素直に指導室の中に入った。わたしも仕方なく後に続く。

中に入ると、明るい黄色の花がテーブルに置かれていて、いいにおいがした。
「フリージアですか?」
西崎がきいた。
「そうだよ。今の君達にぴったりだろ? 花言葉は親愛の情。そして、無邪気」
この先生、花オタクなんだ。
それにしても、今度はあまり悪くない言葉でよかった。もっとも西崎と親愛の情なんて結びたくないけどね。

「さてと、二人とも、まずはそこに座って」
わたし達は長いソファーの端と端に掛けた。
「二人はどうして、そんなにいがみ合っているのかな? 僕から見ると、二人ともかわいくて、いい子なのに……」
「それは、桑原さんがあまりにも現実というものをわかっていないからです」
西崎が言った。

「わかっていないのはあんたの方でしょ? 幼なじみのお姉さんが自殺したっていうのに、いじめられたのは自己責任だなんてひどいこと言うから……」
「あら、だってその人、どこかが不自由ってわけじゃないんでしょう? だったら、誰かに助けを求めるとか、逃げ出すとか、いろいろ方法はあったはずよ。そういう努力もしないってのは、ただの怠慢じゃない?」
わたしは、もう一発殴ってやろうと手を上げた。けど、武本に手首をつかまれた。

「暴力はいけないな」
「放してよ! 何もわからないくせに……!」
わたしは先生を睨んだ。
「わからなくはないよ。僕も昔はいじめられっ子だったんだ。だから、君の気持ちはわからなくもない。でもね、手を上げるのはよくないよ。さあ、きちんと話してごらん? 君の気持ちを……」
何言ってるの? この人。これは、わたしと西崎の問題なのに……。でも、ここで腹を立ててもしようがないから、わたしは振り上げた手を下ろした。すると、武本がにこりと笑って、わたしの頭をなでた。だけど、もううれしい気持ちにはなれなかった。

「でも、先生。わたしはやっぱり、いじめられた人にも問題があると思います」
西崎が言った。
「それは、どんな風に?」
先生がきいた。
「きちんと自分の意見を言わないからです。いやならいやだって言えばいいのに、いじめられている人は、一種のひがみっていうか、どうでもいいような小さなことで傷付いて、何もかも他人のせいにしてるから、先へ進めなくなるんだと思います」

「そんなこと言われたくないね! いじめられたことのない奴にはわからないよ! 逃げたくたって逃げられないことだっていっぱいあるんだ! 無理に押さえつけられたり、紐で縛られたりしてたら逃げられない。ましてや、相手が一人じゃなかったら……」
「だって、24時間縛られてるわけじゃないでしょう? 自由な時間に助けてって言えばいいじゃない」
「言ったって信じてもらえないこともあるし、言ったせいで、よけいに痛いことされたことだってある。もっとひどい目に合わせるぞっておどされたら、言えなくなることだってあるんだよ!」

「バッカみたい。いやなら、がまんせずに言うべきだわ。それができないのはやっぱり勇気がないからよ。ほんとはいじめられたいって願望があるのかしら? ほら、そういう変態っているらしいじゃない? わたしには理解できないけど……」
憎たらしいと思ったけど、武本がこっちを見てる。わたしはふうっと息をはいて言った。
「そうだね! あんたには一生、理解できないでしょうよ!」

射し込む光がジグザグに途切れてテーブルに影を落とす。それは、窓ガラスにうめ込まれたアミ目のもようだった。
「でもね、あんたみたいな考えしてると、世の中がだめになると思うよ」
わたしは言った。
「世の中? 何オーバーなこと言ってるの? わけわかんない」
西崎が少しだけ顔を背ける。

「強い奴だけ生き残ればいいなんてことになったら、とんでもない差別が始まって、人間を物みたいに選ぶ社会が来る。そしたら、大昔のどこかの国みたいに、人を平気で虐殺するような悪い世界になるって言ってんの!」
「それって、ナチスドイツのユダヤ人虐殺のことかしら? そんなことが起きるはずないじゃない。今の日本で……」
わかってないのはあんたの方だと言ってやりたかった。

「へえ。ずいぶん買いかぶってるんだね。人間のことを……」
「信じてると言って欲しいわ」
「あんたの方こそ甘ちゃんじゃない。そんなこと言ってるとひどい目に会うよ。人間は、どこまでも残酷になれる。そして、願望を満たすためには何だってするんだ」
わたしは、ちらっと武本を見て言った。

「何といっても人間にとって大切なのは信頼よ。そうですよね? 武本先生」
「そうだね。西崎さんは素直に人を信じることができる。この間の話し合いの時も、ちゃんと理解してくれたからね。君のいいところは、話せばわかり合えるという点だ。そんないい面を、これからも大切に伸ばして行って欲しい」
彼女がうなずく。何よ、それ。それじゃあ、わたしは話し合っても理解できないおバカさんだとでも言いたいわけ? わたしがムカついていると、武本は笑いながら言った。

「もちろん僕は君のことだって信じてるよ、桑原さん」
そう言って、先生は微笑んだ。
「君の気持ちはよくわかる。君は自分の体験としてそういうことがあるのだと勇気を持って言ってくれた。それだけで大いに説得力がある。君のすばらしい意見に僕も賛同するよ」
でも、本当にわかってるの? あの時は欲望のままに、わたしを風の力で縛って、あんなことしたくせに……。でも、武本はしゃあしゃあと言った。
「信じることは貴いことだよ。でも、残念ながら桑原さんが言う通り、人間は弱いものだ。絶対の保証はない。これから先、何十年も平和で安全な世の中が続くとは限らない。だからこそ、君達のような若い人達の存在が大切なんだ。やがては、この国を支えて行かなければならないんだからね。そのためにも、今は勉強することが大事になって来るんだ」

「でも……わたしはいつだってちゃんと勉強しています」
西崎は不満そうだった。
「僕は思うんだけどね、西崎さん。君は大変よく勉強し、現実を的確に分析することができる賢い子だ。でも、君の考えは少し偏ってはいないだろうか?」
「どういうことですか?」
「それは、困っている人や弱い人達への接し方だよ。何でもお金で解決するのではなく、彼らのために、本当に必要なものは何なのか。それは、心なんじゃないのかな。それを学ぶには、たくさんの物語を読むことだ。勉強の本ばかりでなく、いろんなジャンルの物語をね。そうすることで、足りなかったものが補われて行くことになる」

「でも、お金がなければ何もできません」
彼女が反論する。
「そうだね。でも、それは車の両輪みたいな物なんだよ。たとえば、この花を咲かせるためには、水と太陽の光が必要だ。どちらが欠けても枯れてしまう。どちらか片方だけではだめなんだ。そうして君達が互いに足りなかったものを補い合ってすばらしい友情が育って行ったらステキだと、先生は思うんだよ」
武本はもっともらしく言った。

「わかりました」
そう言って、西崎はあっさり引き下がった。
「桑原さん、君はどう思う?」
「西崎さんに手を上げたのは悪かったと思います。でも、やっぱり納得できません。どう考えても、いじめた方が悪いと思う。でなければ、死んだ育美さんがかわいそう過ぎる。いじめられた方が泣き寝入りしなくちゃいけないなんて、絶対おかしいと思う。育美さんをいじめた奴らを見つけてあやまらせたい。どんなことをしたって……。そうでなきゃ、浮かばれないじゃない!」

「お母さんにもあやまって欲しい?」
「えっ?」
突然の質問にわたしは戸惑った。でも、少し考えてからうなずいた。
「先生が間に入ってあげようか?」
「いいえ。大丈夫です。自分で何とかします」
何か恐ろしいものを感じて、わたしは断った。別にバカ親をかばったわけじゃない。ただ、先生の背後にある闇の風が怖かったから……。
「それじゃあ、二人とも、もう行きなさい」

「桑原さん」
廊下に出て歩き始めた時、先生が来て言った。
「僕はいつだって、君の味方だからね」
そして、職員室に入って行った。廊下にはただ、フリージアの強い香りだけが残った。